BnF
フランスと日本

フランスにおける日本語教育

 

最初の教材


「キリシタンの世紀」においては、スペイン人とポルトガル人の宣教師たちが日本語を学ぶための教材(辞書、文法書)を作成しました。イエズス会士の書簡に は、日本語とその文字についての言及があります。布教に関連する日本の公文書はヨーロッパでも印刷されて出回りました。それらは、暗号のような東洋言語に ついての16世紀末の著作に見ることができます(『暗号論』、1586年)。
17世紀には、長崎の出島に滞在するオランダ東インド会社に勤務していた人々 が初歩的な日本語を学んでいます。エンゲルベルト・ケンペルは、仮名の発音と幾つかの漢語について記した著作を出版します (1729) 。イサーク・ティチングは日本語に精通した最初の西欧人でした。1766年から1784年までオランダ商館長(カピタン)であった彼は、通詞たちから日本 語を学び、日本語会話集の原稿を残しています。
19世紀初頭、出島の居住者たちと深い関係にあったフランス人の中国学者たちが、日本語と文字を学び始めます。同時に、メルメ・ド・カションのような宣教 師が1840年代に日本語を学ぶために琉球諸島に派遣されます。メルメ・ド・カションは、1858年の日仏修好通商条約締結交渉に際しフランス使節の通詞 を務めることになります。
東洋学者のクレール・ド・ランドレス(1800−1862)は、1825年にジョアン・ロドリゲスの『日本語小文典』をポルトガル語からフランス語に翻訳 します。この本は、フランス王立図書館に所蔵され、1604年版と照合された手稿からの翻訳でした。レオン・パジェス(1814−1886)は日本におけ る初期の布教活動を研究した歴史学者で、オランダ商館最後の館長であったヤン・ ヘンドリック・ドンケル・クルティウス(1813−1879)の日本語文法についての著作を1861年にフランス語に翻訳しました。

レオン・ド・ロニーと最初の日本語講義

日本の開国に伴い、外交官や通商交渉に当たる人材を育成する必要が生じました。そこで、すでに100冊ほどの日本語書籍を所蔵する帝国図書館と同じ建物内にあった東洋言語学院に、日本語講座が開講されました。
東洋言語学院の最初の日本語教師であったレオン・ド・ロニーは、1860年代のフランスにおいて日本学の先鋒でした。彼の著作は主に、日本語学、古代史であり、また日本の歴史や文学の根幹とみなされる重要な文献の抄訳でした。彼は1863年に最初の日本語教師になり、フランス語による最初の教則を作成しました。

翻訳

1820年代以降、日本の古典がフランスの公的あるいは私的なコレクションに入り、研究の第一歩の資料となりました。それらは、事典、歴史や文学に関する文献、技術に関する文献などでした。レオン・ド・ロニーが行った翻訳は、彼が「基本的文献」とみなした歴史・文学の文献でした。柳亭種彦の著作のような大衆小説は、19世紀後半に挿絵付きで翻訳されることになります。
19世紀の終わりに、東京の出版者・長谷川竹次郎が、西欧言語に翻訳した日本の昔噺を多数出版します。日本人の偉大な挿絵画家によって挿絵を施されてクレープ紙に印刷されたこの出版物(縮緬本)は、多くの愛好家に評価されました。レオン・ド・ロニーの後継として東洋言語学院の日本語教師となったジョゼフ・ドートゥルメールが、これらの日本の昔噺の多くを翻訳しました。