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フランスと日本

日本芸術の発見

19世紀前半のフランスでは、日本について、陶器や漆器などが特に知られていましたが、版画や絵画、骨董はあまり知られておらず、さらに、大型の彫刻作品や建築物については全く知られていませんでした。
1850年代以降、日本の開国に伴って、今まで全く、あるいはほとんど知られていなかった芸術が姿を見せました。旅行記の挿入画、日本の文物の交易の始まり、日本の芸術品の職人とその技術に対する産業界の興味。

鎖国から開国まで

多くの場合、美術品は19世紀前半に長崎の出島のオランダ商館経由でヨーロッパにもたらされました。オランダ東インド会社に雇われたドイツ人医師、フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト 『日本』(1832−1854)の中のいくつかの挿絵は、北斎漫画からインスピレーションを受けています。

しかしもっと早く、ブルトン・ド・ラ・マルティニエールによる『日本、あるいはこの王国の住民の風習、儀礼と装束』(1818年)には、北尾政演(1761−1816)の色彩版画の銅版画が載せられています。

葛飾北斎

開国後、西欧の鑑賞者たちを特に驚かせた芸術家は北斎でした。シャルル・ド・シャシロン(写真ナダール)は、著書『日本、中国、インドに関する覚え書』(1861年)の中に北斎の複製を掲載しています。北斎に関しては多くの文献がありますが、特に画期となったのは、エドモン・ド・ゴンクール(写真:ドルナック)が林忠正の助けを得て1896年に『北斎 18世紀の日本美術』を出版したことです。これは彼が「画狂」と呼ぶ北斎について書かれた初めての単独の著作です。
そして1914年にアンリ・フォシヨン『北斎』と題する著作を出版します。これはティチアーノ、ベラスケス、ジョルジョーネ、ホルバインの巻もある叢書の1巻として肩を並べているのです。
  
 

フランス装飾芸術への影響

日本美術は、数々の斬新な形態によってフランス装飾芸術を活性化させることになります。日本の工芸職人たちの作品が多くの著作に挙げられています。

採り上げられているのは、漆、布や型紙、金銀細工、七宝、刀、根付けや面などです。ジークフリート・ビングが出版していた美術月刊誌『芸術の日本』をここに挙げましょう。  

 
 

パリ万国博覧会

1867年からのパリ万国博覧会は、日本芸術の多様な展示品に対してより多くの人々の目を向けさせる大きな機会となりました。これらの展示品を送り出した日本は、当時の西欧における自らのイメージが、経済的にも外交的にも利益をもたらすことを次第に理解しました。1867年1878年の二度のパリ万博により、木版画や絵入り本、紙漉の技術、輸出向けの陶磁器などの工芸品の価値が高まりました。しかし、1889年に出品された貴族的な建築の庵、漆や陶器に対しては、観衆はそれほど関心を持ちませんでした。1900年になってようやく、日本の仏教美術、演劇、そして音楽がフランスに紹介されます。

コレクターと貿易商

開国から間もなく美術市場が形成され、多くは自らも日本美術愛好家であった貿易商が店舗を開きます。フィリップ・シシェル(1840−1899)、ジークフリート・ビング(1838−1905)、林忠正(1853−1906)などです。そして顧客もすぐに現れます。

多くの蒐集家たちが木版画、漆工芸品、宗教美術に熱狂しました。エドモン(1822−1896)とジュール(1830−1870)のゴンクール兄弟アンリ・チェルヌスキ(1821−1896)、エミール・ギメ(1836−1918)、そしてレイモン・ケクラン(1860−1931)などです。

美術館と美術史家

日本美術を専門とする批評家や歴史家も登場します。彼らの興味は、日本美術について書物を著したり、日本の美術品の展覧会を開催したりすることに向けられました。例えばルイ・ゴンスの『日本美術』(1883年)があります。

1879年のギメ美術館の開館、次いでエヌリー美術館の開館に伴って、日本美術はプライべート美術館の中に位置付けられ、それはルーヴル美術館においても同様でした。

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