日仏国交
ヨーロッパと日本の初期の交流は、17世紀末に始まります。フランスとの国交が正式に確立されるには、19世紀半ばの日本の開国を待たねばなりませんでした。明治時代になると、両国間の協力関係は密接なものとなります。
初期の交流
日本に関する最初の情報は、16世紀半ば、日本に滞在したポルトガルとスペインのイエズス会士からもたらされました。1585年、天正遣欧少年使節がグレゴリウス13世に拝謁しました。そのことはフランス語の文献でも数多く残されています。
17世紀初頭には、西欧諸国の中でオランダのみが日本に滞在し交易を行うことを許されました。オランダ東インド会社の成功を見て、ルイ14世は日本との正式な国交を締結しようとしました。王はフランス東インド会社を設立する意図を持っていましたが、実現しませんでした。この計画は、通商を目的として書かれた『日本大王国誌』の著者であるフランソワ・カロンに託されました。カロンは1715年に『日本における通商確立のための覚え書き』を著しました。ここで彼は、東インド会社を設立し、その交易活動を中国と日本まで拡大するための最善策を記しています。
幕末期 (1862−1866)の日本使節団
各国との修好通商条約が締結された後、幕府は外国に使節団を送り、西洋文明の情報を得ようとします。最初の日本使節団は1862年にパリに到着しました。使節は竹内保徳に率いられた40人ほどのメンバーで構成されていました。その中には、日本の近代化を切望していた若き知識人・福沢諭吉の姿もありました。
使節団のメンバーはほぼ丸1年滞在し、フェリックス・ナダールが彼らの写真を多く撮影しています。1863年、池田長発を正使とする第2回使節団が日本を発ってパリに向かっています。柴田剛中率いる第3回使節団は1865年~1866年にフランスを訪れています。
岩倉使節団
岩倉使節団とは、使節正使の岩倉具視(年譜、1885年)の名前を採ったもので、1871年に米国とヨーロッパに派遣されましたが、二つの目的がありました。不平等条約の見直しを求めること、そして、近代化を実現するための知識と情報を得ることでした。
使節団は1872年にエリゼ宮で接遇を受けました(『ル・モンド・イリュストレ』1873年)。不平等条約の見直し要求は時期尚早とされ政治的な目的は適いませんでしたが、視察の成果はきわめて重要でした。使節団は多くの科学技術施設や軍事施設の見学を許されました。
日本におけるフランスの軍事使節団
1866年、幕府は近代的で強力な陸軍を創設するためフランスに軍事顧問の派遣を依頼しました。1866年11月、砲兵中尉のジュール・ブリュネが、ジュール・シャノワーヌ大尉の命により、幕府軍創設のために日本に派遣されました。彼による軍制改革は、フランス軍をモデルとする真の軍制度をもたらしました(フランスと日本間の外交史に関わる資料参照)。
日本の要請により、1872年に第2回の軍事顧問団が来日し、ここには砲兵大尉のジョルジュ・ルボンが加わっていました。第3次軍事使節は1884年に派遣されましたが、明治政府へのドイツの影響が大きくなっていたため、非常に小規模なものでした。
科学的・技術的協力
フランスは、日本が19世紀に近代科学を導入する上で決定的な役割を果たしました。多くのフランス人技術者や専門家が日本へ派遣されました。レオンス・ヴェルニは、日仏間の科学・技術・産業分野での最初の共同作業である造船業に着手し、1866年から1875年まで横須賀造船所を指導しました。1886年から1889年までは、ルイ=エミール・ベルタンが彼の後任を勤めました。同様に近代化の先駆として、繊維産業におけるポール・ブリューナ、鉱業におけるフランソワ・コワニエ、近代法導入におけるギュスターヴ・ボアソナードがいます。その他にも、街灯を日本に導入したアンリ・ペレグランや、フランス式の瓦・煉瓦作成技術におけるアルフレッド・ジェラールのように、日本社会の近代化に地道な貢献をした人々もいました。