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フランスと日本

ジャポニスムの発明

ジャポニスムとは、日本から来るものなら何でも、そのスタイルや書法を模倣する一種の流行、熱狂でした。しかしこの流行は奇妙なもので、ほぼ半世紀も続き、イギリスからフランスまで西欧のすべての国を虜にし、しかもその表れ方は対極的でした。確かに「ジャポニエーズリー」と呼ばれた悪趣味を産み出しましたが、同時に、1860年代から20世紀初頭にヨーロッパが経験した物の見方の改革に寄与したことは否定できません。なぜならば、ジャポニスムが18世紀のシノワズリーや19世紀のオリエンタリズムのような過去のエギゾチスムの流行と即座に区別できることは、ジャポニスムはアカデミズムや公的な場よりも、新しい表現を探究する芸術家たちにおいて見られたことです。
北斎や広重、さらにそこまで有名ではない画家であっても、彼らの多くの版画の中に、西欧の画家と版画家たちは色彩、素描、配置、遠近法、形態について新しい表現を発見したのです。他の影響(特に当時新しいメディアであった写真)などと組み合わされ、その新しい表現は視覚の秩序に根本的な変動を引き起こすことになりました。装飾芸術においても、この遙かなる源泉から、図像のレパートリーを刷新するモチーフだけでなく新しい技術も汲み取ったのです。この衝撃の波は途切れることなく印象派、アール・ヌーボー、そしてアール・デコまで拡張していくのです。

1870年代における批評による発明


ジャポニスムという語は、1872年、フィリップ・ブルティ(カルジャによる写真)が『文学と芸術のルネサンス』誌に発表した一連の記事の中で初めて使いました(1年目、第48111416号2年目第1号)。彼は日本美術の重要なコレクターで、最初は、自分自身、そして、ファンタン・ラトゥール、フェリクス・ブラックモン、ザカリー・アストルック等の同好の仲間についてこの語を使ったのです。この新しい語は、まずは日本の版画や骨董品の流行や熱狂を指していました。
他には、時に趣味の悪さを批判する「ジャポネズリ」「ジャポニエーズリ」、あるいは軽蔑の度合いが薄い「ジャポヌリ」などの語が使われました。しかし、エルネスト・シェノーの「芸術におけるジャポニスム」の研究においては(『ミュゼー・ユニヴェルセル』誌、1873年第二期)、すでに美学の潮流として存在していた概念を示しています。
同時期、この語はピエール・ラルース編纂による『19世紀ユニヴァーサル大辞典』(1989年、第二補足版)に採り上げられ、やがてエミール・リトレの『フランス語事典』(1886年補足版)に記載されることになります。

世紀の境の先駆的研究

フランスの近代美術に日本美術が与えた影響については、特に『印象派の画家たち』(1878年)やテオドール・ドゥレの著作などで早くから指摘されてきました。しかしこの現象の総合的なビジョンが描かれるのはようやく1890年代になってからで、二人の美術史家によってでした。
一人目はロジェ・マルクスで、彼は『芸術の日本』の最終号(1891年4月)に「極東の美術が果たした役割とその影響」という記事を書き、そこで、この影響はルネサンス美術に古典古代の美術が与えた影響に等しい、とまで述べています。
二人目はルイ・ゴンスで、『装飾美術』誌に掲載された「日本美術とそれがヨーロッパの美意識に与えた影響」という記事の中で工芸美術に絞って論じ、ギリシャ美術との比較をもう一度取り上げています。この時代にはそれが正統な美術史へ組み入れる条件と考えたからでしょう。
他の論文もそれに続きます。例えば、レオンス・ベネディトは、『ガゼット・デ・ボザール』誌(1905年第一期)においてホイッスラーについて書いた一連の記事の中で、ホイッスラーの「日本発見」を採り上げています。ベネディトは少し前にも、『美術と装飾』(1905年第一期) に掲載したフェリックス・ブラックモン(E・クルタンによる写真)に関する記事において同様の記述をしています。
こうして、30年も経たないうちに、「ジャポニスム」は軽蔑すべき単なる流行から真の芸術的影響という認識へと変化したのです。

美術史の概念としての確立

1西欧美術への極東文化の影響について専ら論じた著作を最初に刊行したのは、ドイツ人の美術史家リヒャルト・グロルでした。同じ頃、フランスでそれに当たる研究はありませんでした。ルイ・オベールが書いた春信とトゥールーズ=ロートレックについての論考(『ルビュ・ド・パリ』誌、1910年2月15日号)はおそらく、フランス人と日本人の芸術家を比較研究した最初の文献と言えるでしょうが・・・。
アンリ・フォシヨンは、1921年のパリ美術史会議で「日本の版画と19世紀後半の西欧絵画」と題された発表を行いました。この発表は、「ジャポニスム」という用語が、少なくともフランスにおいては、美術史上の概念として認められた象徴的な機会でした。しかし、それに続く展開としては、イヴォンヌ・ティリオンがフランス研究国際協会第12回総会において「日本版画の普及による19世紀後半のフランスにおけるジャポニスム」という講演を1960年7月25日に行うまで、40年間待たねばなりませんでした。
「ジャポニスム」について本格的に研究されるのは1970年代半ばになってからで、ドイツ人やアメリカ人の研究者、クラウス・ベルガー、シークフリート・ヴィッヒマン、ガブリエル・ワイズバーグ等が先駆者でした。これらの研究に基づいて、1975年にクリーブランド美術館で「ジャポニスム、1854年から1910年までのフランス芸術における日本の影響」という展覧会が開催され、ジャポニスム研究の新たな画期となりました。一方フランスにおいては、1988年にグラン・パレで「ジャポニスム」展が開催され、大きな話題となりました。この展示会の総合キュレーターはジュヌヴィエーヴ・ラカンブルで、彼女は『19世紀後半の住居と装飾の展開において日本の果たした役割』(1964年、エコール・ド・ルーヴル)の著者であり、今日この著作の先駆性は誰もが認めることです。