日本における写真の黎明期
ベルナール・マルボ
素晴らしい孤立
マルコ・ポーロは『東方見聞録』の中で、13世紀の日本(ジパング)について彼が聞き及んだ事柄を語っています。16世紀、ポルトガル人が偶然日本を発見しました。それを機に日本にやってきたキリスト教宣教師たちが最初に受けた歓待は、長続きしませんでした。すぐに布教は禁止され、17世紀には日本は完全な鎖国状態に入ったからです。マルコ・ポーロが語ったジパングを探すため出発したクリストファー・コロンブスはアメリカ大陸を発見し、この大陸を西欧の手にゆだねます。そしてこの、やがてアメリカ合衆国となる新大陸の国家が、1854年、日本に開国を迫るのです。
19世紀に初めてこの国に到着した西欧人には、ここが別世界のように見えました。この極東の地は彼らの目に、半ば都市化され半ば田舎のまま、いまだ封建制が生きているにもかかわらず文化は十分に成熟している、安定した秩序が保たれた社会と映ったのです。このヴィジョンはあまりにも魅力的で、西欧人たちはこの社会が消えてしまうことを怖れたのですが、その判断に間違いはありませんでした。というのも、何世紀もの間培われてきた日本の魅力は、西欧の科学技術を取り入れることによって消滅の危機に瀕したからです。一般的に、対極的な二つの文化が何の準備もなく全面的に接近した場合、技術的に遅れている文化の方がその独自性を喪失する傾向は強いでしょう。精神性や風習、生活環境などはすぐに消え去り始めます。ジパングとは、その地に到達するや否や永遠に失われてしまう場所だったのでしょうか。
19世紀に初めてこの国に到着した西欧人には、ここが別世界のように見えました。この極東の地は彼らの目に、半ば都市化され半ば田舎のまま、いまだ封建制が生きているにもかかわらず文化は十分に成熟している、安定した秩序が保たれた社会と映ったのです。このヴィジョンはあまりにも魅力的で、西欧人たちはこの社会が消えてしまうことを怖れたのですが、その判断に間違いはありませんでした。というのも、何世紀もの間培われてきた日本の魅力は、西欧の科学技術を取り入れることによって消滅の危機に瀕したからです。一般的に、対極的な二つの文化が何の準備もなく全面的に接近した場合、技術的に遅れている文化の方がその独自性を喪失する傾向は強いでしょう。精神性や風習、生活環境などはすぐに消え去り始めます。ジパングとは、その地に到達するや否や永遠に失われてしまう場所だったのでしょうか。
西欧が差し出す抗しがたい魅力の数々には、西欧の毒を解毒する力はないものの、消え去りつつある日本を記録することができる技術がありました。それが写真です。1839年に発明されたこの技術は、たちまち世界中に広まりました。1851年にはこの技術に新たな利点が付け加えられます。感光した写真の焼き付けが一枚しかできないダゲレオタイプに代わり、複数枚の焼き付けが可能である湿版写真が登場したのです。写真は日本が変容しつつあるまさにその時代に持ち込まれ、人々、自然や都市の風景などを後世のために記録することを可能にしました。「ジパング」の再発見を可能にするこうした記録を作成したのは、多くの場合、西欧人がまだ足を踏み入れていない地で写真を実践していた日本人たちでしたが、少なくとも一人の外国人、フェリーチェ・ベアトは、ある論理に貫かれた一連の写真を残した最初の人間であり、それは、彼に続く者たちによってさらに充実したものとなったのです。
最初の接近(15−17世紀)
実をいえば、歴史の中でこの日出ずる国が忘却の彼方に追いやられたことは一度もありません。孤立した島国で、自給自足がほぼ可能であり、その政治社会体制は外国の影響を受けずに何世紀も存続しました。しかしながら、15世紀からの大航海時代にあっては、その世界的な流れから日本といえども完全に逃れられたわけではなかったのです。当時の西欧は、アメリカ大陸全体を確保し、大西洋を支配下に置いていました。西欧は、時に上陸困難な海岸沿いに進みながら、可能な限り、将来を見越した種子をそこここに蒔いていました。それはインド洋において特に言えることです。西欧諸国は東洋の主要な国の人々についてよく知っており、時には関係も持っていましたが、それでも地球上の全ての土地が彼らのものになったわけではなかったのです。西欧の人々は太平洋沿岸において、文明国にも、全くそうでない国にも遭遇していました。西欧が初めて日本と関わりを持つのは16世紀のことでしたが、いくつかの劇的な事件が起こった後、17世紀初頭には終焉を告げています。事件というのは、禁教政策に伴うイエズス会士たちの追放、オランダと中国を除く世界中の国々に対する国交断絶(鎖国)、そしてキリスト教の布教者のみならず信仰者にも及んだ弾圧と虐殺です。それ以降は、長崎にある出島を通じてオランダ人と結ばれていた細々とした関係をもとに、ヴェストファーレンのエンゲルベルト・ケンペルや、神父だったシャルルヴォワ、またはスウェーデン人のカール・ツンベルクなどが日本に関する書物を著し、当時の知識人たちに読まれました。教養ある人々はまた、『百科全書』を紐解くこともありました。この学識は社会にすぐ浸透することはありませんでしたが、十字軍の時代にまで遡る東方への関心は大航海による知識の広まりにかき立てられ、蓄積された資料とそこから生じたエキゾチックな東洋趣味は、サロン文化に結びついていきました。ペルシア、インド、中国などは、その習慣や信仰が真実だったり、あるいは豊かな想像力に彩られたり、時には素晴らしく、または滑稽に描かれていましたが、この日出ずる国、日本はそうした国々の陰に隠れていたのです。
西欧への開国
19世紀、日本に対する関心は、長崎のオランダ商館長だったイサーク・ティチングに代表される、日本に対して強い興味を持った人々から派生します。商館長の日本美術のコレクションは、シーボルトのコレクションと同じくらい古いものです。シーボルトは1823年から1829年にかけ、欧州のあちこちに散らばっていた日本に関する資料を収集し、千年以上続く文化に富んだ国、そしてそこに住む誇り高く活動的な人々について記述し、日本への考察を深めました。
1853年から1854年にかけての、ペリー提督を司令官としたアメリカの日本遠征は、中世的な、芸術的な、そして牧歌的な日本というロマンティックなイメージに決定的な危機を引き起こしました。徳川幕府は西欧との通商を受諾しましたが、外国人すなわち「蛮人」を忌避する公家や侍の活動によって幕府は瓦解しました。これによって天皇は、何世紀もの間将軍によって取り上げられていた権力を全面的に回復し、外国人技術者や助言者たちに囲まれた新政府は近代化政策を加速させました。この変化は深刻な騒動と血生臭い抗争を生じさせましたが、開国を迫った西欧人にとっては、負うべきリスクは中国の場合よりもずっと低いものでした。1861年前後に散発的に発生した外国人に対する襲撃はすぐに忘却の彼方に去って行きました。日本人の間では、消えゆく伝統を守ろうとする側と、近代化を支持する側との間でいくつかの深刻な抗争を引き起こしました。旧体制の意識を保持する侍による反体制運動は、1877年の西南戦争における政府軍の勝利によって決着を見ます。
日本はこうした国内対立を乗り越えて国力を強化し、列強諸国に早々と加わります。日本海軍が豊島沖海戦(1894年)にて中国の艦隊を、日本海海戦(1905年)にてロシアのバルチック艦隊を打ち破ったことは、この国が世界の列強に肩を並べる存在となったことを象徴的に示しています。
西欧が日本的なインスピレーションを抽出し、ジャポニスムという新たな芸術形態を創出する元となったジパングの微笑みの後ろには、ゴヤの『巨人』を思い起こさせるような、謎めいた恐ろしい姿が浮かび上がっていたのです。