日本における写真の黎明期
ベルナール・マルボ
フェリーチェ・ベアト 写真スタジオでの撮影と日々の暮らしの光景
フェリーチェ・ベアトが1863年に日本に到着した時、日本は近代の入り口に差しかかったばかりでした。それまでに地中海とアジアの国々を訪れ、現地の人々と交流していたベアトには、滞在先の人々と付き合うための実用的な知性と、他の文明の技術を吸収する能力が備わっていました。彼は、この「泡末夢幻の島」ジパングが終わりを迎えつつあることに気づき、手つかずの風景と日常生活を送る住民たちの姿を残そうと計画しました。このプロジェクトはそれ以前の彼の仕事とは対照的なものでした。というのも、時には一人で、時には彼の義弟で、やはり19世紀の重要な写真家であったジェームス・ロバートソンと共に、彼は疲れを知らぬ勇敢な写真レポーターとしての役割をその時までは果たしていたからです。
日本において、ベアトはその活動の一部を写真スタジオで行い、様々な職業や、日常生活を舞台化した写真を撮りました。それらは、ヨーロッパの写真スタジオで繰り返し取り上げられていた対象でした。彼が日本社会の鏡に映してみせるイメージは、表面的なエキゾチシズムや、既存のピトレスクな演出よりもより表現性の高いものでした。高い技術を持ち、主題を賢明に扱うことができたベアトは、時として低レベルのオリエンタリズムに迷い込んでしまう他の写真家たちよりずっと高いレベルにいたのです。その観察眼と腕前により、彼は最も優秀な写真家たちの中でも第一級に位置していました。彼ら優秀な写真家たちは、パリからヌメアに至るまで、近くの、または遠くの、あらゆるエキゾチシズムのレパートリーを充実させていくのです。
日本において、ベアトはその活動の一部を写真スタジオで行い、様々な職業や、日常生活を舞台化した写真を撮りました。それらは、ヨーロッパの写真スタジオで繰り返し取り上げられていた対象でした。彼が日本社会の鏡に映してみせるイメージは、表面的なエキゾチシズムや、既存のピトレスクな演出よりもより表現性の高いものでした。高い技術を持ち、主題を賢明に扱うことができたベアトは、時として低レベルのオリエンタリズムに迷い込んでしまう他の写真家たちよりずっと高いレベルにいたのです。その観察眼と腕前により、彼は最も優秀な写真家たちの中でも第一級に位置していました。彼ら優秀な写真家たちは、パリからヌメアに至るまで、近くの、または遠くの、あらゆるエキゾチシズムのレパートリーを充実させていくのです。
彼の作品に見られるエキゾチシズムの傾向は、写真の技法よりも、選ばれた主題においてそのオリジナリティを発揮しています。西欧では、ピッフェラーリと呼ばれる路上の商人たち、その物売りの声のような過去の世界の生き残りは、どんどん周縁に追いやられていました。写真家たちがそのような対象を扱っても、エピナール版画のような取るに足らない画像しか生み出しませんでした。日本では、1870年代の終わりまで、その周縁に追いやられたものがメインテーマになっていました。ベアトが港で見た光景、ましてや内陸の町やさらに田舎で見た光景は、独特で成熟した文明の基準を明らかに満たしていました。ベアトの目には異国の人々が、そしてその文明との出会いの衝撃による何かが、そうでなければエキゾチックな、少なくとも新奇な何かが映っていたのです。
彼の撮った写真には、着物姿の日本人女性、子どもを背負った女性、布一枚を纏っただけの男性、全身に入れ墨をした別当、行水をする人など、日常生活における人々の姿がありました。また、混雑した通り、東海道や中山道のような人が行き交う空間では、乗り物ではなく歩く人々の、その歩行のリズムが様々に切り取られています。蓑を着た巡礼者、刀を二本差して道を行く浪人、荷車を押したり引いたりする人々、駕籠を担ぐ二人の男などもまた題材になりました。
彼の撮った写真には、着物姿の日本人女性、子どもを背負った女性、布一枚を纏っただけの男性、全身に入れ墨をした別当、行水をする人など、日常生活における人々の姿がありました。また、混雑した通り、東海道や中山道のような人が行き交う空間では、乗り物ではなく歩く人々の、その歩行のリズムが様々に切り取られています。蓑を着た巡礼者、刀を二本差して道を行く浪人、荷車を押したり引いたりする人々、駕籠を担ぐ二人の男などもまた題材になりました。
ベアトは、自身が受けた日本の印象を起点とし、この多彩な現実から最も個性的な構図を型にはめずに抽出し、現実を歪曲することなく対象を再構成する事が出来ました。一方スティルフリードは、才能も美的感覚も兼ね備えていたにもかかわらず、その点ではベアトほど納得のいく構図を作ることが出来ませんでした。多くの写真家は不自然で人工的な美的意識が先行し、ステレオタイプとわざとらしさを強調する結果になっていたのです。時が経つにつれ現実生活から姿を消してしまった上記のような被写体は、再構成して撮り直されることになります。その際多くの写真家たちは、地域色を強調し、歴史家というよりは大衆作家や脚本家の想像力に役立つような、民俗学を記号化したような写真を生み出すのです。
写真という文化財の意義
一般的に、これらの写真はまぎれもない資料的価値を持っています。それらはその土地の生活を説明する機能はもとより、見る者の感情を揺り動かす力も明らかに備えています。現実から切り取られた断片であるこれらの写真は、外国人の目に映った光景を要約する類型を作り出しています。これらの写真は、別の世界との接触によって遠い過去の中に沈みゆくことになる、ある一つの生き方を映し出した貴重な資料なのです。これらの写真は風習や流行、そして様々な場所の歴史性を証言していますが、それらは物質的な進歩の道をひたすら歩む国が捨てていくもの、博物館や画廊に早々に閉じ込めてしまうはずのものなのです。またこれらの写真は、同時代に制作された多くの日本趣味の版画や、エキゾチシズムを好む西欧の鑑賞者のために描かれた絵画のイメージが偏っていることを糾弾します。一例を挙げれば、フィルマン=ジラールが真面目くさって描いた滑稽な絵画である『日本の化粧』(パリ、1873年のサロン)などの皮相な作品が挙げられるでしょう。
公私を問わず、フランスの古文書館の多くは日本の古い写真を保存しています。これらの写真は中世の彩色装飾写本と同じくらい私たちに注目され、敬意を払われる価値があるはずです。まず、それらの主題が注目されるべきでしょう。深刻な社会変動が千年以上続いた日本の特徴を消し去る以前の彼らの生活、ある社会での生き方や存在の仕方には目を向ける価値があります。さらに必要なのは、仕事そのものに対する敬意でしょう。当時、写真のポジはその一枚一枚が複雑な手作業プロセスの結晶であり、感光材の準備から現像した写真の修整まで、また、主題の構図の決定から撮影に至るまで、真に職人的なノウハウを必要としていました。それに加え、写真への彩色があります。西欧の写真スタジオがこの技術を知らなかったわけではありませんが、この技術に専心していた日本人たちの仕事からは、特筆すべき繊細さと器用さが伺えます。つまり、一枚の写真が完成するまでには、デッサンよりも長い時間が必要とされたのです。伝統的な図像に対する写真の利点は、それを完成させるのが簡単だという点にあるのではありません。それは、画像を(限定されているとはいえ)複製できるという点、そして撮られたイメージの(相対的な)正確さという点にあるのです。
同時代のテキストと関連づけるため、これらの写真の正確で体系的な目録が作成されるべきでしょう。これらの写真は、単に過去という墓地に続く小路を飾る図像としてあるのではありません。それらは、遠くに霞んで見える色や形を、遠くから漂う匂いや彼方に聞こえる音を想像するための、そしてかつての日本を想像するための記念碑的なバラ窓として現前するのです。
同時代のテキストと関連づけるため、これらの写真の正確で体系的な目録が作成されるべきでしょう。これらの写真は、単に過去という墓地に続く小路を飾る図像としてあるのではありません。それらは、遠くに霞んで見える色や形を、遠くから漂う匂いや彼方に聞こえる音を想像するための、そしてかつての日本を想像するための記念碑的なバラ窓として現前するのです。
このテキストの完全版は、フランス国立図書館版画・写真室名誉学芸員ベルナール・マルボによって書かれ、国立図書館での展覧会「ジパングに向けられたレンズ ——−日本の昔の写真」のカタログに掲載されました(パリ、国立図書館/パリ・オーディオヴィジュアル、1990年)。