日本における写真の黎明期
ベルナール・マルボ
写真の黎明期
カメラ・オブスキュラがオランダから初めて日本にもたらされたのは、まだ鎖国中の1848年のことでした。このダゲレオタイプは多くの人々の興味と関心を集めますが、1851年にはコロジオンによる湿版写真が伝わり、ダゲレオタイプに取って代わりました。日本の政治体制の大きな変革期において、写真は日本中に普及して行くことになります。
1858年、米国及び西欧諸国と日本の間に一連の条約が結ばれ、日本の5つの港が外国船の寄港を許すことになりました。それ以降、来日した欧米の写真家たちは日本人に写真術を教え、教わった生徒は自ら学んだ内容をさらに他の日本人に広めて行きました。写真家の中には、1857年に長崎に来航し、1859年まで日本各地で写真を撮影した、「ノルウェー人」と呼ばれていた人物がいました。この謎に満ちたスカンジナヴィア人は、ガイドであり友人であった日本人の Dsetjumaに写真術を伝えていました。さらに、オランダ海軍の軍医、ポンペ・ファン・メーデルフォールトは、1857年から1863年まで長崎で教鞭を執り、学生たちに湿板写真の基本的な技法を教え込みましたが、その学生の中には上野彦馬がいました。これらの写真家は、1863年にフェリーチェ・ベアトが横浜でしたのと同じように、日本に長期滞在し、滞在中は日本人の助手を雇っていました。この助手たちがやがて独立し、自ら写真を撮り始めることも少なくありませんでした。とはいえ、この最初期の日本の写真は、特に肖像写真に限られていました。
後に、『絵で見る日本』を記すことになるエメ・アンベールも、1863年に自分が住んでいた住居に写真アトリエを作ります。
写真の勝利
1870年代、欧米列強に支配されるのではなく、その国々と肩を並べる道を選択した日本において、写真は全国に普及していました。写真を学んだ人々の中には町中だけでなく、京都、鎌倉、日光などの有名な寺社の境内に写真機を据える者、または写真機を背負って各地の名所や祭りの縁日を回る者もありました。有名人の肖像写真や名所の風景写真は焼き付けられ、旅行者や観光客向けに販売されていました。東京の悪所では、遊郭の遊女たちの写真が入口に貼られていました。1889年、大日本帝国憲法が発布されますが、これはその三十年前、西欧諸国が意図せずに引き起こした政治改革による一つの結論と言えるでしょう。日本はこの憲法で三権分立と、当時東洋では例がなかった代議士制度を取り入れます。明治憲法発布のこの年は、日本写真会が創設された年でもありました。機材が軽くなったこと、そして操作が簡単になったことで、写真に関わる人の数は増加しました。この時期、ピクトリアリスムという写真の潮流が世界中に写真サークルやクラブを作り出していました。1893年、東京で西欧の写真の展覧会が開かれ、多くの鑑賞者を集めました。その際、ピクトリアリスムが大々的に紹介され、鑑賞者たちは、日本の伝統絵画に影響されたような表現方法が時おり見られるこの新たな美の潮流を知ります。こうした動きの中で、日本の写真家たちの表現も国際的な水準にまで高められていきます。しかしながら、真の意味での日本の写真の始まりは、20世紀になってからのことです。
消えつつある文明の姿を残す
19世紀末、消えつつある日本の姿を写した写真はかなりの数にのぼります。有名な写真家たち、そして写真を普及させた多くの無名の写真家たちはこの新しい資料を活用します。チェンバレンの『日本事物誌』のように、過ぎ去った昔を想わせる名所の写真集、失われつつある風俗や風習を写した写真集などが、商業的な写真家たちによって販売されました。
>西欧から来た外交官、兵士、商人、政府機関の顧問、美術愛好家、コレクター、そして旅行者たちは、あのペリー提督と同様の道を歩みます。エメ・アンベールのように滞在記や航海記を綴り、出版する者もいました。これらの証言からは、銀塩写真が発展していった様子が見えてきます。写真が撮られるスタジオも販売場所もその数を増やし、利用方法も多様になりました。写真は日本において、議論の余地のない程の魅力を獲得していたのです。エドモン・コトーは、公園や大通りに並ぶ散策者目当ての茶屋と同じくらい写真スタジオが存在していると述べています。外国人旅行者は安い値段で肖像写真シリーズや写真アルバムを買い求めました。アンベールは、このような図版であればそれだけで十分に一冊の書物になり得るという考えから、そうした写真や版画、デッサンを集め、出版するのです。その一方で、旅行者自身による写真撮影はまだ例外的であり、リスクも大きいものでした。交通機関もそれほど発展していない時代に、様々な場所でそれぞれ現地の写真を買うことができるのに、かさばる機材を抱え、操作に時間をかけるのが有益とは思われなかったからです。