BnF
フランスと日本

版画におけるジャポニスム

1872年に美術評論家のフィリップ・ブルティが初めて「ジャポニスム」という語を使用した時、日本の美学の影響はすでにあらゆる芸術に及んでいました。中でもジャポニスムの中心だったのは版画です。版画が優れていたのは、2つの役割を果たしたことにあります。すなわち、日本の美学の実例であると同時に表現の形態でもあったことです。北斎や広重を始めとする浮世絵師の版画により、西欧のアトリエに日本美術が広りました。そして日本の版画の直接の影響も、フランスの版画作家において現れたのです。
二世代にわたって、芸術家たちは各々の方法で、日本の版画がもたらした主題や新しい画法を把握しようとすることになります。初期の日本研究者であるフェリクス・ブラックモンや、エドゥアール・マネ、エドガー・ドガ、そしてジェームズ・マクニール・ホイッスラーは、独創的なエッチングの発見に貢献しました。
アンリ・リヴィエールとナビ派の時代は、多色刷り版画や木版画が全盛でした。中には日本の版画技法や主題を用いる芸術家もいました。アンリ・リヴィエール(1864−1951)と彼の友人のジョルジュ・オリオール(1863−1938)が道を開き、プロスペル=アルフォンス・イサーク(1858−1924)とジュール・シャデル(1870−1941)がその後を継ぎました。
ルソー邸の陶製テーブルウェア(1866)の装飾のためにフェリクス・ブラックモン(1833−1914)が彫ったモチーフを別にして、版画・写真部門から選んだ作品群は、ジャポニスムに一時的な影響を受けたの芸術家の作品を羅列するのではなく、真にジャポニストである芸術家の総体を重視しています。

 

ジョルジュ・ビゴーのジャポニスム


プロスペル=アルフォンス・イサークは1870年にパリに移り住みます。彼は定期的に東洋美術商のサミュエル・ビングの店に出入りしていました。彼は日本芸術友の会に入会し、会のために月例夕食会の招待状を版画で制作しました。さらにパリ日仏学会にも加わります。日本美術はイサークの生涯に重要な意味を持っており、彼を日本の版画や骨董品のコレクションに向かわせただけでなく、芸術家としての経歴を方向付けました。染色と版画です。
彼は、200点に及ぶ版画(フランス国立図書館はその半数以上を所有しています)を、生涯最後の20年間に制作しました。日本の版画の影響は至る所に現れています。何よりも、日本の様式による多色刷り木版画の技法に顕著です。しかし同時に、採り上げた主題(多くの風景が広重から影響を受けています)、作品の判型、日本のグラフィック芸術特有の書法にも現れています。
イサークは、この版画技術の秘密を、彼の協力者である漆原(木虫)由次郎から学びました。二人の落款が揃って捺されている作品が多数あります。イサークはまた、彼と同様に日本美術友の会会員であったジュール・シャデルとも共同制作を行いました。1913年、イサークの優れた木版画の技術に注目した『美術と芸術』誌は、彼が自分で木を選びばれんでこすり印刷するまで、途中の顔料の準備や紙の選択も含め、制作の秘密を読者に見せることを依頼しました。

ジョルジュ・オリオール(1863−1938)

多才な芸術家であったジョルジュ・オリオールは、1880年代の初頭にアンリ・リヴィエールに出会います。彼らは「シャ・ノワール」においてキャバレーとレビューのプログラムやポスターを描いたり、あるいはレビューそのものに関わるなど、一緒に仕事をしました。リヴィエールはオリオールの非常に親しい友人となり、彼に日本風の木版画の技術と多色石板印刷の技法を教えました。
この二人の芸術家の共同作業によるプロジェクトは多数に及び、『エッフェル塔三十六景』(1902)もそのひとつです。オリオールの素描や版画にはジャポニスムとアール・ヌーボーの影響が色濃く、柔らかい線、植物紋様、繊細な色使いなどが特徴です。

ジュール・シャデル(1870−1941)

ジュール・シャデルは装飾美術学校を卒業した後、日本美術の愛好家で著名な宝飾作家であったアンリ・ヴェヴェールの下で仕事をします。彼はそこで20年過ごし、当時のパリにおける最も美しい日本の版画と骨董のコレクションのひとつを目にすることになります。
ラ・ボエシー通り59番のアトリエで、彼はアンリ・リヴィエールなど東洋美術の愛好家の面々と出会いました。彼は、1892年にジークフリート・ビングが創設し1905年以来ヴェヴェールが主催していた日本美術友の会の会員になります。彼はそこでプロスペル=アルフォンス・イサークと友人になり、イサークから日本風の多色刷り木版画の技術を教わります。日本人版画家の漆原由次郎の助言もその技術の修得に役立ちました。シャデルは日本的なモチーフのみに拘泥せず、他にも様々なインスピレーションの源を追及した点に独創性があります。
フランス国立図書館の版画・写真部門に保存されているシャデルのコレクションは、その多くが彼の未亡人の寄贈(1942年)によるものです。

日本美術友の会

1892年に東洋美術商サミュエル・ビングによって創設された日本美術友の会は、ジャポニスムの発展に多大な貢献をしました。この友の会は40年間にわたって月例夕食会を催し日本美術愛好家を集めました。会員には、レイモン・ケクラン、林忠正、アンリ・ヴェヴェール、アレクシー・ルアールのような蒐集家、ロジェー・マルクスのような美術評論家、ルーヴル美術館の骨董担当であったガストン・ミジョンのような学芸員、そして、アンリ・リヴィエール、プロスペル=アルフォンス・イサーク、シャルル・ウダールあるいはフェリックス・レガメのような芸術家がいました。 ジークフリート・ビングは亡くなる1905年まで友の会の運営を続け、その後、著名な宝飾作家でありコレクターであったアンリ・ヴェヴェールが運営を引き継ぎました。
夏季を除いて定期的に開催された夕食会は、「ル・グラン・ヴェフール」、「パレ・ロワイヤル」、あるいはイタリアン通りにある「カフェ・リッシュ」、「レストラン・カルディナル」といったレストランで行われました。ジャポニスムの芸術家たちによって版画で制作された夕食会の招待状はアンリ・ヴェヴェールの発案によるもので、以来この会の貴重な資料なっています。フランス国立図書館の版画・写真部門は、このうち1906年から1917年の間に21人の芸術家たちによって制作された65通の招待状を所蔵しています。作者の中には、ジョルジュ・オリオール、ジュール・シャデル、シャルル=ルイ・ウダール、プロスペル=アルフォンス・イサーク、アンリ・リヴィエール、ピエール・ロッシュ、そして漆原由次郎がいます。版画の多くの技法が使われていますが、ほとんどの招待状は日本風の多色刷り木版画の技法により和紙に手刷りされています。


ポスターと広告

第二帝政期には、それまで活版印刷でモノクロだった広告のポスターが多色刷りになり、判型も大きくなります。19世紀後半の日本の版画の鮮やかな色調と主題は、広告の世界へ広がっていきました。例えば骨董品店のポスター、日本美術の展覧会、大衆演劇のポスター、化粧品の広告などです。
ジュール・シェレアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックや他のジャポニスムの芸術家のポスターのように日本芸術の技術を参考にした洗練された作品がある一方で、多くの広告や、見世物、祭りあるいはダンスホールのポスターにおいては、より大衆的なジャポニスムが見られます。多くの描写が日本と中国をまだ区別できていません。 またそこには、素朴なステレオタイプも見られます。つまり、北斎や広重の有名な版画作品や当時の写真から借りたのであろう富士山と芸者などです。