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フランスと日本

旅行記とルポルタージュ

19世紀の開国まで、フランスにおける日本のイメージは、ポルトガルとスペインのイエズス会士による情報か、オランダ東インド会社に勤務した者たちの著作に基づいていました。18世紀末になってようやく、海軍士官ラ=ペルーズが琉球諸島沖を経てサハリン(樺太)島に接岸します。これは日本の海域へのフランスの初めての進入でした。

 

観光地としての日本

日本が西欧に対して開国した後、初期の旅行記が1853年に出版されます。外交官、軍人、貿易商、あるいは宣教師たちの著作は、同時代人の日本に対する好奇心を呼び覚ましました。
フランスから日本への航行には、1851年に設立された「メサジュリー・マリティム(フランス郵船)」の客船が使われました。この会社は郵便船としての役割と共に、海路による観光旅行の飛躍的な広がりに貢献しました。1866年には極東航路が開設されました。日本に着くまでには40日が必要でした。日本の港や都市には鉄
道や大型ホテルが建設され、多くの外国人が訪れるようになりました。西欧の建築物に倣った構造と資材により、これらの施設は日本の急速な西欧化のシンボルとなりました。例を挙げると、築地ホテル(1868年、東京)、ヨコハマグランドホテル(1870年、横浜)、西洋館ホテル(1873年、東京)、鹿鳴館(1883年、東京)などがあります。
1860年代になると、日本の旅行ガイドブックが英語で出版されるようになります。『マレーの旅行ガイド』や、英国外交官サー・アーネスト・メイソン・サトウの名を採った『サトウの旅行ガイド』などです。ガイドブックは名所旧跡を記述し、そこにまつわる歴史や伝説を紹介しています。旅行者はこれらのガイドブックにより旅程、交通手段、宿泊場所についての情報を得ることもできました。日本は観光地のひとつになったのです。

 

日本を訪ねた旅行者たち

旅行者たちの望みは、いまだ残る「古い日本」に接することでした。つまり、1860年から1870年代の旅行記に記されていたサムライの日本であり(『世界一周』1867年前半刊行)、ゲイシャの日本でした(M.デュバール著、『ピトレスクな日本』1879年刊行)。
旅行者の中には、パリ社交界に飽き、新奇な物を探し求めていた上流階級の人もいました。
例えば、エミール・ドーディフレ、レオン・ド・タンソー伯、デュドヴィック・エベール・ド・ボーヴォワール伯、レイモン・ド・ダルマ伯、ガブリアック伯、ジョゼフ=アレクサンデル・フォン・ヒュブネル男爵、アルチュール・ド・クラパレッドなどです。また他にも、旅行作家(エドモン・コトー)、公使参事官や使節の一員(イジドール・エゲルモンアルベール・ティサンディエ)、美術品蒐集家(エミール・ギメ、アンリ・チェルヌスキ、テオドール・デュレ)、旅行写真家(ユーグ・クラフト)、あるいは単にエキゾチスムを好む美術愛好家(ジョルジュ・グーダルコ−ギョーム・ドッピングエミール・ジョトラン夫妻)等々がいました。

 

ギメ使節団

1876年、リヨンの実業家で旅行家でもあったエミール・ギメは、フランス美術・公教育省から、東洋の宗教についての調査を委託されました(E.ギメ『・・・レポート』1877年)。彼は、明治政府が激しい廃仏毀釈運動を開始した直後に日本に到着します。ギメ
は仏像と東洋の宗教に関する書物の膨大なコレクションを2か月で集めました。このコレクションが後にギメ美術館の主要部分になります。日本の発見は、その精神の発見でもありました。
画家のフェリックス・レガメもギメに同行し、日常生活の細部を素描に残しました(F.レガメ「車曳き百太郎の肖像」、1876年)。それは彼らが東京や日光を散策した際に出会ったものです(E.ギメ、F.レガメ、『日本散策』、1880年)。


不安な視線

1894年~1895年の日清戦争と、そして何より1905年の日露戦争の勝利により、西欧の日本を見る目は変わります。ジョルジュ・ブスケはすでに1877年に『今日の日本』という先駆的な著作を書き、アジアの民衆が西欧に対して反乱を起こすことがあり得ると予測し、アジアの侵略が西欧にもたらす危険を不安と共に指摘しています。何より脅威と捉えられていたのは清でしたが、1895年に日本がその清に勝利したことは大きな驚きでした。

日本とロシアの戦争は一年間にわたりメディア上で大変な騒ぎになりました。パリの大メディアは、この出来事を刻一刻と徹底取材することの重要性を早くも理解していました。たとえとして:
- 『ル・プチ・ジュルナル』挿絵入り文学号増刷、 1904/03/06, 1904/09/25/, 1905/02/12
- 『ル・プチ・パリジャン』挿絵入り文学号増刷、 1904/02/28, 1904/04/03, 1904/05/01
中には、戦争終結の1か月前に、ひどく残虐な様相のこの新しいタイプの戦争について(『アシエット・オー・ブール』, 1904/12/03、『ル・プチ・パリジャン』紙 1904/09/25)、「証言者の感想」としてその全体像をまとめて刊行する雑誌すらありました(『ル・タン』紙、「文学生活、現代史」、1905年8月20日号)。