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フランスと日本

文学におけるジャポニスム

ゴンクール兄弟の『マネット・サロモン』(1867)が出版され、そこでの「日本の画集」の描写が文学の世界にもジャポニスムをもたらしました。ジュディット・ゴーティエやピエール・ロティの小説は中でも最も知られています。とりわけ19世紀末の日本趣味を象徴し続けているのは、ロティの『マダム・クリザンテーム(お菊さん)』でしょう。エキゾチックなステレオタイプを好む大衆文学、東洋からの形式上の影響に敏感であった詩歌、また演劇などを通して、この現象は様々な文学ジャンルで実践され、ある時は予想通りの、ある時は驚くべき結果をもたらしました。
ルソー邸の陶製テーブルウェア(1866)の装飾のためにフェリクス・ブラックモン(1833−1914)が彫ったモチーフを別にして、版画・写真部門から選んだ作品群は、ジャポニスムに一時的な影響を受けたの芸術家の作品を羅列するのではなく、真にジャポニストである芸術家の総体を重視しています。

 

ジュディット・ゴーティエの作品


ジュディット・ゴーティエ(1845−1917)はテオフィル・ゴーティエの娘で、1885年に詩集『蜻蛉集』(古今集から採られた88の短歌)を出版しました。これは西園寺公望公爵が日本語から逐語訳したものをさらに翻案したもので、山本芳翠の挿画が添えられています。二人とも当時パリに滞在していた留学生でした。彼女はまた、日本の歴史に想を得た何冊かの長編と短編を書いています。『簒奪者』(1875年)、『小町』(1893年)、『姫君の16年間』(1893年)、『愛の姫君』(1900)、『空を織る娘』(1904年)などです。

 

ピエール・ロティの小説

ピエール・ロティ(1850—1923年)は海軍士官として二度日本を訪れています。最初は1885年、再来日は1990年から1901年にかけてでした。彼はこの「ムスメの国」を複数の小説に描き出します。最も有名なのは『マダム・クリザンテーム(お菊さん)』と、その続編である『お菊さん補遺』、『お梅が三度目の春』です。また、日本の女性たちに捧げられたエッセー(1893)などもあります。


世紀末詩人たちの日本

レオン・ド・ロニーの『日本詩歌集』(1871年)やジュディット・ゴーティエの作品『蜻蛉集』(1885年)などにおそらくインスピレーションを受け、世紀末の作家の中には、彼らが「日本風」と考えた詩作品を書き始めた人たちもいます。
そうした詩の大部分は12音節詩句(アレクサンドラン)で書かれています。代表的な詩人にカミーユ・サン=サーンス(1835−1921)、カチュール・マンデス(1841−1909)、ジョゼ=マリア・ド・エレディア(1842−1905)、ローラン・タイヤード(1854−1919)、ロベール・ド・モンテスキュー(1855−1921)、アリ・ルナン(1858−1900)、オーギュスト=ジルベール・ド・ヴォワザン(1877−1939)がいます。アルマン・ルノー(1836−1895)やアンリ・ド・リブロール(1837−1908)などは8音節の詩句を、ポール=ジャン・トゥーレ(1867−1920)はより遊びの多い韻律を採用しました。17シラブルの俳句の影響は、この頃はまだ現れてはいませんでした。1870年代後半に生まれた3人の詩人、ポール=ルイ・クシュー、アンドレ・フォール、そしてアルベール・ポンサンが最初に出したフランス語の俳句集『水の流れに』が出版されるのは、もっと後の1905年で、その影響が本格的に広まるのは第一次世界大戦後のことです。


大衆文学における日本

大衆文学における日本のイメージは奇妙で幻想的でさえありました(たとえば『日本旅行』(1882年)、『法師の復讐』(1882年)、『瓜二つの人』(1889年)、『日本の物語』(1893年)など)。
そして、日清戦争(1894−1895)、そして日露戦争(1904−1905)における勝利が、「ムスメの国」を世界に脅威をもたらす帝国に変えてしまった後では、より不安を呼び起こさせる内容になっていったのです。(『仏陀の耳元で』(1904年)、 『黄色人種の侵略』 (1909年)、『ミカドのメッセージ』(1912年))。
しかし、リシャール・コルタンベールは、『ある日本人のフランス滞在記』(1864年)で、そしてアリ・アリスは『ハラキリ』(1882年)で独特のユーモアを交え、日本人をパリの新たなペルシア人 (モンテスキューの『ペルシア人の手紙』からの比喩)として描き出しています。


舞台における日本

ジュディット・ゴーティエの『微笑みを売る女』(1888年)は、日本文化に着想して書かれた最初の脚本というわけではありません。その10年以上前に、すでにレオン・ド・ロニーの『緑竜の修道院』(1873年)やエルネスト・デルヴィリーの『美しきサイナラ』(1876年)などが発表されていました。
ポール・アンテーム=ブールドの舞台作品『日本の名誉』は『忠臣蔵』に想を得た作品で、1912年4月17日、オデオン座で上演されました。主演はロミュアルド・ジュベ、ヤゴローの役でした(美術はシャルル・ドラローシュ)。その一年前、ウーヴル座では、リュニエ=ポーがロベル・デュミエールの2幕仕立ての日本の伝説劇『ケサの愛』を舞台化していました。
音楽の分野では、ピエール・ロティ(F.ヴァロトンによるカリカチュア、1892年)のあまりにも有名な小説の場面に基づいてジョルジュ・アルトマンとアレクサンドル・アンドレが脚色したアンドレ・メサジェの『オキクさん』(1893年)が国際的な成功を収め、これを元にした二人の英国人シドニー・ジョーンズとオーウェン・ホールによるオペレッタ『ゲイシャ』(1896年)が、1898年にパリで初演されました。米国人ジョン=ルーサー・ロングとデヴィッド・ベラスコは戯曲『蝶蝶夫人』(1900年)を書き、イタリア人の作曲家ジャコモ・プッチーニは同名のオペラ(1904年)を作曲しました。このオペラは、アルベール・カレ(訳注・オペラコミックの当時の総支配人)の演出により1906年にパリで上演されています。
日本風の舞踊もまた好評を得ました。オリヴィエ・メトラ作曲、ウジェーヌ・ラコスト衣装担当の『イェッダ』(1879年)、またレオン・ガスティネル作曲、シャルル・ブランキ衣装担当の『夢』(1890年)などが現在までよく知られています。

 
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